2010上映会

 11月28日に行われた上映会の題材、「2010」の簡単な感想を書きます。

2010年 [Blu-ray]

2010年 [Blu-ray]

 
 本作は、アーサー・C・クラークスタンリー・キューブリックの手による名作「2001年宇宙の旅」の続編です(但し監督は異なる)。木星に残されたディスカバリー号モノリスを調査すべく、前作で月のモノリスを発見したフロイド博士らが調査に向かいます。
 始めに断っておきますが、私は『2001年宇宙の旅』の小説版は読みましたが、映画は見ていません。小説版と映画版には若干の相違が見られるため、『2001年宇宙の旅』の作品解釈が通常と異なる可能性があります。ご了承下さい。

 さて、本作の感想ですが、前作『2001〜』以上に明確なメッセージが盛り込まれていたと私は思います。
 本作でHAL9000が反乱を起こした原因が判明しました(小説版『2001年〜』では既に明かされています)。探査計画に関する命令と、政府の密命という、矛盾した命令を与えられた事により、混乱を起こしたのが真相でした。この原因を突き止めたのはHAL9000の生みの親、チャンドラ博士であり、彼は人工知能を弄んだ政府に対して怒りを顕にします。
 しかし、それでもHAL9000は人間に従う道を選びました。映画の終盤、スターチャイルド=ボーマンの警告を受けた調査団は木星を離脱します。その際に、ディスカバリー号を犠牲に―つまりHAL9000も犠牲にするしか方法がない事が判明しました。チャンドラ博士はHAL9000に苦悩しながらもこの指令を伝えます。するとHAL9000はすんなりと承諾しました。任務遂行の為に、そこに矛盾はなかったから…

人間に振り回され、しかし人間の為に犠牲となる道を選んだHAL9000は余りにも健気です。ここからは、技術文明への批判が見てとれます。人間が、人工知能、特に人間に使役される知能を作ることは本当に正しいのか。それは技術が足を踏み入れてはならない領域ではないのか。人工生命体等、SFの中の存在としか見られていなかった技術が実現へ向かいつつある今、このメッセージは更なる重みを持ちつつあります。

本作における重要なテーマはもう一つ存在します。「冷戦と世界平和」です。
映画のラストにボーマンと邂逅を果たしたHAL9000が発信したメッセージにより、米ソの全面戦争は回避されました。本作の公開は1984年、ソ連アフガニスタン侵攻に始まる「新冷戦」の最中でした。そこに反戦メッセージが盛り込まれるのは自然といえるでしょう。(なお書評でも書きましたが、新冷戦という同一の時代背景で、逆に悲観論を描いたのがサイバーパンクであると私は考えます)

以上の様に見ていくと、前作『2001〜』のテーマ、メッセージが抽象的かつ黙示的であったのに対して、本作『2010年』のそれは極めて明確に示されている事がわかります。
やはり冷戦という緊迫した状況だからこそ、そのメッセージは具体的である必要があったのでしょう。それに伴い、前作の様な芸術的場面が減少したせいか、本作は前作程の評価は受けていません。しかしメッセージの重みは現在でも十分にあり、映画として見ても、全編を貫く緊迫感溢れる演出はなかなかのものであったと私は思います(原作者のクラークも本作を高く評価している)。
(砂井)

雲の向こう、約束の場所上映会

先日行われた雲の向こう上映会の感想とレビューを載せておきます。

 今回の上映会の題材は「雲の向こう、約束の場所」であり、テーマは平行世界であった。しかし平行世界とはいっても各世界の差異といったものが特に出てくるわけではない。閉鎖空間的な役割や脅威として扱われるのみだ。また作中では平行世界は宇宙の夢とも言われていた。
 作中では佐由理に平行世界の情報が流れ込んでおり、その情報の膨大さ故に佐由理は眠り続けている(佐由理が目覚めれば行き場を失った平行世界の情報による世界の書き換え、侵食が行われる)とされていた。だが実は世界の意識主体は佐由理であり、世界自体が佐由理の見ていた夢だったのではないだろうか。目覚めとともに夢は消える、故に塔の活性化と空間侵食は連動していた、ある意味独我論的である。ここにおいては目が覚めれば瞬時に消滅するのではないかという可能性は考えないものとする。「ユニオンの塔」と佐由理とのリンクは何故起きたのかという疑問も残るが、設計者が彼女の祖父だからと考えるのが妥当だろう。いまいち説明不足のように感じても深く追求するのは野暮というものだ。

また浩紀と佐由理が「(佐由理のいた誰もいない世界が)より現実的に感じる」などと言っていたように次第にあちら側の世界(ここでも世界の意識主体は佐由理だが、先と違い世界は佐由理の夢なのではなく、主体たる佐由理が世界を構築していると考える。前文と連続しているように見えて、微妙に解釈が変わっていて申し訳ない。)がメインの世界になりつつあったのではないだろうか。自分は見ている最中に、最後はあちらの世界に現行世界は書き換えられ、浩紀との二人の世界化、もしくは拓也をも呑み込んだヴェラシーラを作っていた頃の変わることなき幸福な世界化という展開になるのではないかとも考えていたわけだが。その場合ヴェラシーラが完成して塔まで行けたらどうなってしまうのだろう。

 ラストで佐由理が目覚めるシーンについて。「忘れちゃった」と泣きじゃくる佐由理と「目覚めて良かった」と喜ぶ浩紀。この浩紀の言葉や場面からして、忘れてしまってもこうして目覚められたのだからこれからまた一緒に歩いて行くことができる、                                                               (あちらの世界での繋がりほどではないものの)二人の仲はまた進行するのではないかといった良い展開や救済の予感があるも、結局は(浩紀が一人で歩き、佐由理の幻影を見る)冒頭に繋がり、おそらくは結ばれずに終わってしまうのだからなんとも悲しいことである。佐由理が廃駅から塔を眺めるシーンとラストの塔の爆破の描写がほぼ同じことと、その後の「私たち前にも」という佐由理の発言、この両者からして、もしかしたら佐由理の(目覚めて忘れてしまった)未練が(あの気持ちを忘れない、そして結ばれる可能性を求めて)(塔とのリンクと眠りから始まる)平行世界を生み出し、結末の変わらない悲劇(?)が繰り返されているのかもしれない。そう考えても面白いだろう、さらに悲惨な話ではあるが。この解釈ならば平行世界設定にも多少の意味は見出せる。

こちらはSF的感想というよりも表現についての話になるのだが、拓也と浩紀の再会後の廃車庫(ヴェラシーラ製作場所)でのシーン、「世界を救うか、佐由理を救うか」という問いかけ、ならびにおそらく作中唯一の拓也の喫煙について。この場面で佐由理との約束を重視する子供っぽい浩紀と現実的で大人びた拓也との対比が成されているのは明らかである。しかし喫煙の描写は余計だったのではないかと思う。作中で喫煙がここだけでしかも唐突に行われたこと自体不自然であり、また先の台詞と相まってただ単に(真っ直ぐな浩紀を前に)気取っているように見えてしまい、描写が軽くなってしまっているように感じる。もっともこの点を批難するのには高校三年生(18)の喫煙というものに(年齢的には良いとしても)嫌悪感を抱くというきわめて個人的な理由もあるのだが。

作中にあった平行世界を覗いて重大な意思決定等に役立てるという考えも興味深い。だがこれは思考やらを放棄することに繋がる恐れもある。(そんなことを偉そうに言う自分もこれを書いている最中や課題作成中に、過程やらをすっ飛ばして完成品や結論にさっさと至りたいと何度も思ったものだが。)それに頼り過ぎては、いつしか平行世界を覗いたとしても答えも見つからなくなり(思考放棄の末とその影響。だが一方で同じ選択が同じ結果となりうるのか、平行世界は自分で考えることを続けているのではないか等の疑問もあるのだが)、自ら考えることすら忘れた世界、というより人間は破滅を待つのみとなるだろう。たとえ答えが示され続けたとしても考えることをやめた人間に意味はあるのだろうか。また、思考の放棄に至らなくとも、実用するとなれば様々な問題が付きまとうだろう。おそらくは正しい判断(何をもって正しい、正義とするかについての問題はここでは無視しよう)のできる大国(もちろん作中のユニオンや現実の某大国は論外である)による独占が一番の解決法であろうが。もっとも自分としては自由意思や決定による分岐の存在は疑わしいと考えているのだが。

この作品は見ている最中にはSF的に考えるべきことが少なかったのが残念であり、平行世界関係も活かしきれず、(先には野暮とは書いたものの)やはり説明不足ではあるが、話はそこそこに面白いので未見の人は一度見てみるといいだろう。あくまで娯楽作品ということで。 

(松崎)

幼年期の終わり 書評 あしたは「雲のむこう」上映会です。お暇でしたら、ぜひご参加ください。

遅くなりましたが、6月19日に行われた読書会で取り上げた「幼年期の終わり」レの感想を載せておきます。後に読書会の感想も掲載する予定です。

幼年期の終り (ハヤカワ文庫 SF (341))

幼年期の終り (ハヤカワ文庫 SF (341))

さて本書の主題は「人類の進化」ということに集約されていくのであるが、それについては私より優秀な方がいくらでも解説しているので、そちらを参考にしてもらいたい。今回は別の視点からこの物語が訴えたかったことを分析していきたいと思う。
私が注目したのは、人類と、オーバーロードの関係だ。人類はオーバーロードの超越した科学力に畏れと憧れを抱く。だが当のオーバーロードは進化の袋小路に達していると共に、科学よりも、精神の進化を重視したオーバーマインドに憧れを抱く。私は、オーバーロードは物質的肉体や科学技術力の限界を示していて、そこには科学に永遠の繁栄を求め進んでいく人類へのアシモフなりの警鐘があったように思うし、そう思うからこそ、この物語がSF的に面白いということができるように思うのだ。
半世紀ほど前、我々の住んでいる21世紀という世界は夢の科学万能世界として扱われていた。心を持ったロボットがそこらじゅうにおり、秘密のポケットから便利な道具を何でも出してくれる。そしてそれらは自分の身も厭わずに、100万馬力で人のために一生懸命尽くしてくれるのだ。だが現実はどうであろうか、科学の発展は確かに私達の自由を拡大してくれはしたものの、今度はその科学が環境問題や地球温暖化などを引き起こし、人類に牙をむくようになってきている。一時期の「癒し」ブームがオーバーロードのため息と重なって見えたのは私だけではあるまい。我々が進化させるべきだったのは本当に科学だったのだろうか。未来に生きる我々こそがアシモフのメッセージを受け取り、考えねばならないだろう。
(渡邉)

テストついでに…

2010年度sfゼミ長に任命されました。渡邉です。任命されたからには一生懸命やらねばと手始めに…というにはずいぶん遅いスタートですが、(まぁ上映会の準備やら読書会の準備やらいろいろと忙しかったものでご勘弁を…)ずいぶん前から休止していたSFゼミin hatena の改修に着手させていただきました。テスト等忙しいことが終わったら、公式に公開したいとおもいます。